年を重ねるとどうしても喪に服すことが増える。
それは仕方がない自然の摂理。
祖母は97歳まで元気に暮らしました。
身も心も丈夫な、健気で愛おしい人でした。
通夜、葬式には、子供や孫、ひ孫と多くの親族が列席し、最後のお別れを致しました。
どうしても、亡き祖母のことを少し覚えておきたくて書き記すことにします。
2時間ドラマが豪華キャストでできそうなくらいの壮大な人生を送った祖母。
彼女がいたから、母が生まれ、私が形成されたと思うと感謝しかありません。
大正時代から平成ラストまで駆け抜けた強い女性
祖父の顔を私は知りません。
祖父はとても病弱な人だったそうで、私が生まれる前に既に亡くなっています。
母もあまり祖父のことを話すことはなかったので、記憶が薄いのかと思われます。
女で一つで育ててくれた祖母のことを、とても偉大に感じていた、そんな親子関係です。
祖母は救護看護婦でした。
結婚前、陸軍看護婦として海外にも渡り、兵士たちの救護を必死でしてきた人です。
そんな祖母だけあって、とても厳しい人でした。
当時まだワーキングマザーは少なかった時代にバリバリ仕事をして子供を育ててきた祖母。
それも、陸軍看護師の経験があるなんて誰でももっている経歴じゃない。
末っこの母にとって、祖母は偉大な人であったし、絶対の存在でした。
祖母が必至で命と向き合ってきた事実が、母や私を強くしました。
かけがえのない命を粗末にしてはいけない
命ある限り精いっぱい生きなくてはいけない
そんな気持ちを知らず知らずのうちに学んできました。
祖母は多くを語らない人でした。
それは思い出したくない壮絶な戦時体験があったこともそうでしょう。
もっと聞いておいたら良かった、こんな人生経験できる人なかなかいるもんじゃない、それが祖母の人生だなんて誇りすぎる・・・と思うのはあとの祭りで、97歳までぴんしゃん生きた祖母に聞く時間は山ほどあったのに、厳しい祖母に尋ねる勇気を持つことのできなかった私です。
祖母は90歳を過ぎても、手を貸すことを嫌がりました。
巣鴨を一緒に歩く機会があったとき、瞬時に腕を掴む私の手を振りほどいて、階段もものともせず大丈夫大丈夫といって、人に支えられることを不快に感じるようでした。
自分のことは自分で。人に迷惑をかけたくない。私は大丈夫。
確かに祖母は元気でした。いつも笑顔よりも真面目な顔つきが思い出される、でも穏やかな人でした。
私が幼少期の頃は大好きなスキーに連れていってくれたり、動物園に行ったり海に行ったり、活発に一緒に出掛けてくれました。
行動派の祖母は当時から、もう既にいい歳を召していたけれど、大きな荷物を背負ってよく歩く印象でした。
いつも自分のことは自分で。
周りに気を配らせない配慮があった気がします。
私の想像の範疇は到底及ばない、生死をたくさん目の当たりにしてたくさんの心を感じてきた祖母。
結婚後も看護婦として家をあけることが多く、たくさんの気持ちを抱えてきた祖母、そして子である母。
話すことが不器用で、あまり甘えることが上手でなかった祖母。
彼女が生き抜いてきたこの時代の背景や生き様に大きなリスペクトをして
私の人生を、命ある限り大切に生きようと、家族とともにいられる時間を大切にしようと
親を大事に、子供を大事に、わたしと関わってくれる人たちを大事に生きようと改めて思います。
そう志をもって生きるか否かで人生の豊かさは変わります。
祖母が自分の人生を全うしたように、私も祖母に誇れるような人生を送ります。
おばあちゃんありがとう、見守っててね。